哺乳瓶は「乳母イラズ」と呼ばれた!

中田元子 著『乳母の文化史――19世紀イギリス社会に関する一考察』
(人文書院、2019年)

 沢山美果子『江戸の乳と子ども』を読んで、江戸時代のような保育園のない時代には乳をめぐるネットワークがあって子どもの命を守り育てていたことを知りました。乳母(うば)も乳をめぐるネットワークに入っていたのですが、イギリスの乳母がどのような存在だったのかに興味をもち、本書を読んでみました。

 本書の著者、中田元子さんはイギリス文学・文化を専門とする研究者です。本書では、イギリスの小説家チャールズ・ディケンズの文学作品や首相を務めたグラッドストンの日記、新聞に掲載された求職広告などを史料としてイギリス社会の乳母の実像に迫っています。

乳母は英語でウェット・ナース


 英語で乳母はウェット・ナース(wet nurse)または単にナース(nurse)といいます。「ナース」と聞くと私たちは「看護師」をイメージしますが、「世話をする人」ということなのでしょう。「看護師」は主に病気の人を世話し、乳母は赤ちゃんを世話する。そしてウェット(wet)とは「乳が出る」ということだと思います。本書の説明にもありましたが、イギリスでは「乳汁を分泌しない乳母」は「ドライ・ナース」と呼ばれます(34ページ)。

背景に出産時の死亡など

 本書にはイギリスで乳母が必要とされた背景事情が詳しく説明されていて勉強になりました。それは日本の江戸時代の状況と似ている部分があると思ったのですが、出産直後に母親が死亡したり、病気などによって乳があまり出なかったりした場合、現代なら粉ミルクを使用しますが、19世紀の半ばごろまでは粉ミルクも哺乳(ほにゅう)瓶(びん)が実用化されていなかったということです(33ページ)。
 そこで乳母が必要とされました。当時よく読まれた育児書には必ず乳母を選択する時に注意すべきことについて書かれたページがあったそうです(58ページ)。注意事項としては、授乳中に何らかの病気が赤ちゃんに伝染することを避けるために、乳母が健康であることが重要だとされました(65ページ)。また、真偽(しんぎ)のほどはよく分かりませんが、授乳によって乳母の気質(きしつ)や感情の乱れが赤ちゃんに伝わるということも言われたようです(63ページ)。

乳母になるのは貧しい階層


 本書を読んで、とても重要だと気付かされたのは、乳母を雇用する慣習というのは階層差が表れやすいということです。つまり、乳母を雇用できるのは経済的に余裕のある階層で、乳母になるのは経済的に余裕がない階層だということです。そして、当時のイギリスでは、経済的に余裕のない女性が乳母として雇われる時、自分の子どもを捨てることが問題となっていたそうです(83ページ)。つまり、乳母を雇う慣習は捨て子を助長するという悪徳なのでやめるべきだ、という批判の声が当時高まったそうです(85ページ)。しかし、衛生的で安全な粉ミルクや哺乳瓶が手に入りやすくならなければ、乳母を雇う慣習はなくならない。イギリス19世紀とはそういうジレンマの時代だったと気付きました。

「乳母イラズ」


 また、明治初期の新聞に、西洋から輸入された哺乳瓶が「乳母イラズ」という名称で紹介されていたということも、とても面白いと思いました(226ページ)。
 本書を読んで、歴史的にはいろいろな国で乳母が必要とされてきたということが分かりました。時代劇や歴史小説などを読むときには、もっと乳母について注目していきたいと思います。また、粉ミルクや哺乳瓶の開発・改良にはどのような困難があったのかについても調べていきたいと思いました。
 また、本書を読むと、文学の研究が著名な小説や作家についての研究だけでなく新聞広告や育児書の研究にも応用できることも分かります。文学と文化の研究成果に関心のある人に本書をおススメします。

過去記事もご参照ください!

https://hon-navi.com/?p=794

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