親からの「恩」を誰に返すのか?

ナタリー・サルトゥー=ラジュ 著『借りの哲学』
(太田出版、2014年)

借りたら返すのが基本だが

 ボールペンやハサミなどの物を借りたら返す。もし返さない場合、「泥棒」というのはボールペンやハサミぐらいで大げさかもしれませんが、元の持ち主が使いたい時に困るだろうから不親切だし、返すのを忘れているのだとしたら「だらしない人」と思われてしまいそうです。そして文房具などの物ではなく、お金を借りて返さないのは本当に「泥棒」だし犯罪――本書を読む前はこのように考えていました。

「借りる」という行為の意味

 著者のナタリー・サルトゥー=ラジュはフランスの哲学者・作家です。本書では借りるという行為の意味やそこから生じる結果などについて豊富な事例をもとに考察されています。借りるという行為は経済的・金銭的な文脈では「負債」ですが、人の感情面では「恩」や「負い目」という意味も含まれるとサルトゥー=ラジュは述べています(10ページ)。
 《借り》の範囲をここまで広げたうえで、《借り》をめぐるさまざまな思想が検討されています。そのひとりがドイツの哲学者ニーチェです。ニーチェは、《負債》という概念は「借りたものは返さなければならない」という意識を植えつけ、「約束を守る」「責任をもつ」という道徳の基礎を育てたと『道徳の系譜』の中で述べています(54ページ)。
 《負債》という《借り》を返すことは基本的に債権者に対して責任を果たすことを意味しますが、サルトゥー=ラジュはさらに思考を広げて、犯罪によって個人や社会に損害を与えることも、犯罪者の一種の《借り》であるとしています(143ページ)。刑罰はこの《借り》を返済させることで社会の公正や正義を取り戻すことだとサルトゥー=ラジュは述べています。たいへん重要な指摘だと思いました。

「返すことのできない借り」


 ここで注目したいのは、サルトゥー=ラジュが「世の中には《決して返すことのできない借り》がある」と述べていることです(139ページ)。いくら《償い》というかたちで《借り》を返しても、被害者の側から言えば、赦(ゆる)せない部分が残ることも確かです。《借り》と《償い》の交換を目指すのが基本だが、どうしても交換を上回る部分をあえて免除することが「赦(ゆる)し」の本質だとサルトゥー=ラジュは述べています(142ページ)。考えさせられる指摘です。

「育ててもらった恩」という「借り」

 さて、本書の全体的な主張の中で最も注目されるのは親子間における《借り》です。親が子を育てるのは「無償の愛」とも言われますが、子は親から受けた「愛」という「恩」を親に返す必要があるでしょうか? また、その「恩」を親にすべて返すことは可能でしょうか? サルトゥー=ラジュは、子はこの「恩」を親に直接返す必要はなく、自分の子どもに「愛」を与えるというかたちで間接的に返せばよい、と述べています(22ページ)。また、子どもがいなければ、あとに続く世代の誰かに返せばよいとも述べています。「先行する世代から贈られたものを《借り》とし、それに自分がつくったものを加えて、あとから来る世代に贈るかたちで、その《借り》を返す」(211ページ)。「要するに、上の世代から受けた《借り》は、下の世代に返せばよいのだ」(25ページ)というのが本書を貫く主張です。とても参考になります。

次世代に贈り物をしながら生きる

 今回取りあげたニーチェのほかにも本書では人類学者・社会学者モースや哲学者レヴィナスやスピノザ、聖書の中の事例やドン・ジュアン(ドン・ファン)の事例など幅広い題材が取りあげられていますので哲学・思想に関心のある方には是非オススメします。
 また、インターネットの発達した現代社会についての考察もあります。インターネットを利用すること自体が、先行する世代の誰かが作ったシステムを借用していることであり、自分は誰にも《借り》がないと考えることは誤りだと著者は述べています。(195ページ)。本書を読むと、私たちの誰もが《借り》がある存在で、次の世代に贈り物をしながら生きることが大切だという指針を得ることができます。

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