カトリックは他の宗教とどこが違うのか(比較宗教学)

谷泰 著『カトリックの文化誌 ―― 神・人間・自然をめぐって』
(日本放送出版協会、1997年)

 これまで山形孝夫さんの『治癒神イエスの誕生』と『読む聖書事典』を読んで、キリスト教について勉強してきました。私はキリスト教徒ではありませんが、西洋文化の土壌となったキリスト教について理解をさらに深めたいと思い本書を読んでみました。

 本書の著者、谷泰さんは西洋史を専門とする研究者です。谷さんご自身もキリスト教の信者というわけではないのですが、本書では「生活のなかにくみこまれたカトリックを、ほかの宗教と比較しつつ」検討し、ヨーロッパ文化理解を深めることを目指して詳しい考察をしています。

聖書の位置づけが違う

 本書を読んで気付いたことの1つは、同じキリスト教であっても、カトリックとプロテスタントでは聖書の位置づけが違うということです。プロテスタントでは聖書の「自由検討」が許されたのに対して、カトリックでは聖書、教皇教書、教父の著書、祈禱書(きとうしょ)、殉教録(じゅんきょうろく)などに教会が公式の解釈を与えて、信者の規範となる「公教要理」を公布しています(40ページ)。これは基本的なことなのでしょうが、とても重要だと思いました。

告解は信者の団結を促す

 次に気付いたのは、カトリックの「公教要理」の基本的な主張は、人間はすべて罪人であるという原罪の考えに基づいてミサの儀式に参加することが必要だとされているということです(42ページ)。ミサの儀式には、洗礼、堅信礼、告解、聖体拝領、婚姻、終油という6つがあります。幼児期から成人期、そして死を迎えるまで、人生の節目にそって教会と関わるというのがカトリックの信者ということが分かります。これらのうち、告解とは、洗礼後に犯した罪の許しを得るための儀礼です(47ページ)。洗礼によって原罪の許しを得ていながら、人間は弱い存在であるため、繰り返し罪を犯し、掟を破ってしまうので、繰り返し告解を行います。谷さんは、この告解の儀礼ができた背景に初期キリスト教会が厳しい弾圧を受け手、信者の団結を乱す行為を防ぐ必要があったことを指摘しています(48ページ)。本書では、カトリックに対する谷さんなりの関心や疑問が提起され、それがさまざまな史料や他の宗教との比較の視点から検討されるというスタイルが取られています。私はこのスタイルがとても興味深いと思いました。


 告解について谷さんは次のように述べています。

「それにしても、神に向かって告白し、懺悔(ざんげ)するのと、たとえ神への仲介者司祭であれ、人間に告白するのとでは違いがあるだろう。司祭は、その告白内容を他にもらすことはかたく禁じられているにしても、告白するものの心理的不安はやはりその相手が人間であるだけに残るにちがいない。自分の内なる秘密を一人の司祭が知っているということが、その人を教会から離れがたくすることもあるだろうし、また教会を不安な力として感じさせることもあるだろう。」(48~49ページ)

 この谷さんの指摘には「なるほど」と思いました。
 

「祈り」は共通

 本書の最大の特徴は、カトリックを比較宗教的な視点で検討していることだと私は思います。それはたとえば101ページの「神と人とのコミュニケーション形式からみた宗教比較」の表にまとめられています。この表では、カトリックがユダヤ教、ギリシア・ローマ在来宗教、イスラム教、プロテスタント、日本神道と比較されています。比較されている項目は4つありますが、「祈り」はこれらすべての宗教にあります。そして、お供え物をする「奉献(ほうけん)」もプロテスタント以外はすべての宗教にあります。
 大きく違うのは「オルギー」があるかどうかです。「オルギー」とは、集団的に神の祭壇の前で踊ったり、酒を飲んだり、食物を食べたりしながら、興奮状態に入ることです(93ページ)。これがあるのは、ユダヤ教、ギリシア・ローマ在来宗教、日本神道で、逆にないのがカトリック、イスラム教、プロテスタントです。

象徴的な犠牲

 そして、私が本書でもっとも注目したのが「犠牲」という項目です。これは動物を殺して神に捧(ささ)げるという儀式です。これがあるのはユダヤ教、ギリシア・ローマ在来宗教、カトリック、イスラム教、プロテスタントです。ただし、カトリックの場合、動物を殺して神に捧(ささ)げる代わりに、イエス・キリストの十字架上での死が象徴的な「犠牲」となっているというのが谷さんの見解です。これはとてもオリジナルな見解だと思いました。この点について谷さんは反論も予想しながら、かなり詳しく議論を展開しています。カトリックより前に地中海世界に広まっていたユダヤ教やギリシア・ローマ在来宗教が動物犠牲の儀式を行っていたために、カトリックはそれを全否定せず、「犠牲」の形を変えつつ残すことで、地中海世界に広まるための工夫をしたのではないかというのが谷さんの考えです。


 日本では「神仏習合」といって、外来の仏教が日本神道との重なりを強調したという工夫があったように、カトリックは象徴的な「犠牲」という工夫をしたと谷さんは考えています。この「神仏習合」のことは、今後も勉強したいと思いました。

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