童話『青い鳥』とは違うストーリーです
重松清 著『青い鳥』
(新潮社、2010年)
重松清さんの小説は以前から『せんせい。』などを読んだことがありました。少年時代の感じ方を思い出させてくれる大好きな作家さんです。今回は改めて『青い鳥』を読み直してみました。メーテルリンク作の童話『青い鳥』と題名が同じですが、内容は異なります。(※ネタバレあり)
著者自身と重なる主人公
本書の著者、重松清さんは小説家で、特に教師と子どもと親の物語をたくさん描いています。
本書『青い鳥』は、吃音(きつおん)の教師、村内先生がいろいろな中学校を渡り歩き、いろいろな生徒と出会う短編集です。言葉がどもってうまくしゃべれない国語の村内先生を主人公にした理由について重松さんは、ご自身が吃音だからと「文庫版のためのあとがき」に書いています(435ページ)。重松さんは吃音だったことで多くの苦しい思い、悔しい思いをしてきたと想像します。「教員免許を取得しながら、じつを言うと吃音のコンプレックスに押しつぶされた格好で教師になることをあきらめた」とも述べており、もし重松さん自身が教員の道を歩んでいたら、「こういう経験をしたのではないか」という思いを託された存在が、『青い鳥』の主人公の村内先生です。これについては、本書の「文庫版のためのあとがき」を読んで初めて知りました。
本気で聞く主人公
本書には8つの短編が収録されていますが、どれも学校生活がうまくいかない中学生の前に村内先生が登場し、対話を重ねることで少しだけ前向きな気持ちに変わっていくというストーリーになっています。書名にもなっている「青い鳥」では、ある生徒をからかっていじめたクラスの臨時の担任として村内先生が来て、いじめを苦にして転校した生徒「野口くん」のことを思い出させるために、撤去されていたその生徒の席を教室に戻して、「野口くん、おかえり」と声をかける場面があります。村内先生は、人が本気でしゃべっていることは、本気で聞くのがあたりまえのことです、みんなはそれができなかったから、先生はここにきました、と言葉をつっかえらせながら言います。これはとても大事なことで、人を大事にするということは、本気で聞くということとイコールなのだと気付かされました。反対に、人をからかう、軽く扱う、というのは、相手が本気なのに、こちらは本気で聞く必要がないという態度に出ることなのだと思いました。
みんな同じ方向を向かせる
この他にも、「進路は北へ」という短編では、授業中、先生にあてられても「わかりません」としか言わない生徒に対するいやがらせをして、転校に追い込んだ女子中学に村内先生が臨時採用され、その生徒が本当は吃音で、うまくしゃべれないことを隠すために「わかりません」としか言わなかったということが明かされます。吃音に苦しんだ重松さんの思いが詰まった物語だと思います。この「進路は北へ」は、高校にエスカレーター式に進学するのが標準になっている中高一貫の私立女子中学で外部の高校に進学を目指す生徒が、担任の先生と関係を悪くして悩んでいるところに村内先生が登場します。村内先生は、吃音の生徒が苦しんだことことの根本原因として、学校というのはみんなに同じ方向を向かせる傾向があって、それに教師も生徒も気付いていないことを指摘します。それで外部進学を目指すと白い目で見られる。そういう学校の圧力が吃音の女子生徒も苦しめたのだと言います。村内先生と話しながら、この女子生徒はたった1人でも外部進学を目指すことを決意するストーリーになっています。この「進路は北へ」も私はとても好きです。
映画版も
本書が文庫化されたのは2010年ですが、ハードカバー版は2007年に出版されていました。本書に収録された「青い鳥」をもとにして、2008年に映画『青い鳥』が作成されました。主演の村内先生役は阿部寛です。小説から伝わるイメージからすると映画版の主人公はカッコ良すぎます。私はこの映画を何度も観ていますが、近いうちにまた観てみたいと思います。映画製作当時の携帯電話がスマホではなくガラケーなので時代の変化を感じますが、内容はとても面白いので、こちらも是非おススメします。