人体をめぐる政治の世界地図

米本昌平 著『バイオポリティクス――人体を管理するとはどういうことか』
(中央公論新社、2006年)

 以前、ミシェル・フーコー『わたしは花火師です』を読んだ時、強調されていたキーワードが「生-政治(ビオ・ポリティック)」でした。身体とは「生-政治的(ビオ・ポリティック)な現実」で、医学は「生-政治的(ビオ・ポリティック)な戦略の一つ」と述べていました。この「生-政治(ビオ・ポリティック)」は今や英語になったりカタカナ日本語「バイオポリティクス」になったりして使われているようです。その内容を詳しく知るために本書を読んでみることにしました。

優生学とバイオポリティクスは重なる

 本書の著者、米本昌平さんは科学史を専門とする研究者です。私は以前、米本さんが著者のひとりになった『優生学と人間社会――生命科学の世紀はどこへ向かうのか』を読んだことがありました。
 「劣悪」な遺伝子を減らし、「優秀」な遺伝子を増やそうとする優生学は「バイオポリティクス」と重なる面がありますが、本書『バイオポリティクス』で取り扱われるのは主に、ヒトの遺伝情報を解明しようとした国際計画の「ヒトゲノム計画」、胎児の発生初期の細胞である「胚」、臓器移植、などの人体の研究、取引、規制をめぐるさまざまな課題です。これらは政治的な課題となることが多いため、それは人体の政治(ポリティクス)、つまり「バイオポリティクス」と呼ばれることになります。

先端医療の世界地図がつかめる

 米本さんは、身体や医療めぐる国家の管理についてのフーコーの問題提示を参考にしながらも、20世紀末から21世紀のいわゆる先端医療が政治的課題となる状況を指して「バイオポリティクス」と読んでいます(17ページ)。
 本書を読んで気付いた第一のことは、「バイオポリティクス」をめぐる状況は基本的に「3+1極化」として整理できるということです(236ページ)。米本さんは「米欧日とその他新興地域」と述べています。つまり、先端医療をリードするアメリカ、ヨーロッパ、日本があり、その後を追うように新興地域の動きも活発化しているということです。
 まず、戦後のアメリカで1970年頃から生命科学に巨額の研究資金が投入され、その研究成果が先端医療の進展を促している状況があります。アメリカでは人体の処分権や自分の人生を決定するのは本人であることを強調する「患者の自己決定」が強調されている。そして、患者の自己決定と自己責任において臓器や細胞などの人体組織の取引が大きく進展した。アメリカではまるで商品のように人体組織が取引されている現状があります(24ページ)。
 これに対して欧州(ヨーロッパ)では、患者の自己決定ではなく、医師の専門性と国家による医療サービスの提供という考え方が強調されます。特に1990年代に人体組織の処分を患者の自己決定に委ねるのではなく、国家が関与し規制する法整備が行われました(217ページ)。その中心にあったのはフランスで、欧州評議会を通じてフランスと同様の考え方の法整備が各国で進みました。

日本の状況はどうか?

 さて、日本です。日本は先端医療が発展しているが、生命倫理をめぐる議論には関心が非常に薄いということを危惧していいます。法整備はお役所任せで、カバーしている範囲がとても狭いということです(163ページ)。
 本書を読んで気付いた第二のこととして、生命倫理(バイオエシックス)には宗教色が反映されやすい論点がある、ということです。たとえば、世界的には「受精卵はヒトなのか?」という問題をめぐってかなり踏み込んだ議論が行われていますが、その議論をリードしているのはカトリックの総本山であるローマ教会です(134ページ)。受胎の瞬間に神の手によって魂が吹き込まれるのだから胎児は人間に限りなく近い存在だというのがローマ教会の立場です。ローマ教会がこの立場を厳格に打ち出したのは1960年代だということは初めて知りました。このローマ教会の立場は、キリスト教徒が多く住むアメリカにも強い影響を与えており、人体組織の処分では米欧の基本的な考えは異なっていますが、「受精卵はヒトなのか?」をめぐっては米欧には考えを同じくする人々もいるということで状況はやや複雑だと思いました。

「移植ツアー」も

 本書を読んで気付いたことの第三は、世界には「医療デバイド」、つまり医療をめぐる格差があるということです。これはまず、アメリカのような自己決定と自己責任を重んじる国の国内で、医療保険を購入できる富裕階層と、購入できない貧困層という格差になって表れます。それだけでなく、経済のグローバル化によって「移植ツアー」となって表れています。経済の南北問題と重なりながら、臓器移植をめぐって、南の貧しい国から臓器が供給され、北の豊な国の富裕層が臓器の受け手となり、移植手術のツアーを行う市場が成長していると米本さんは指摘しています(199ページ)。米本さんは「移植ツアー」を「グロテスク」だと表現していますが、私もそう思いました。

 フーコーが用いた「生-政治(ビオ・ポリティック)」という言葉は「バイオポリティクス」というカタカナ表記になって、臓器や細胞の研究、取引、規制を指す言葉として用いられるようになっていることが本書を読んで分かりました。生命倫理(バイオエシックス)という言葉はすでにメジャーですが、米本さんはこの言葉では捉えることができない論点があることを本書で示したかったのではないかと思いました。ふだんの生活ではあまり考えることが多くない論点ですが、とても勉強になる本ですので、是非おススメします。

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