優生思想とは何か――その危険さを知ることができる名著です
米本昌平+松原洋子+橳島次郎+市野川容孝 著『優生学と人間社会――生命科学の世紀はどこへ向かうのか』
(講談社、2000年)
720円+税
2016年に神奈川県相模原市の知的障がい者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害され、職員を含む26人が重軽傷を負った事件がありました。元職員の男は死刑が確定していますが、被害者を「生きるに値しない」とした優生(ゆうせい)思想(しそう)の持ち主だと報道されていました。優生学・優生思想とはどのような学問・思想なのかを詳しく解説した本として本書を読んでみました。
生殖技術の背後にある思想とは
本書の著者の4人は科学史、医学史、科学技術政策論、医療社会学などを専門とする研究者で、米本らが1994年に『先進諸国における生殖技術への対応』というテーマで研究成果をまとめる過程で、生殖技術の背後にある隠れた課題として20世紀に各国で展開された優生学の比較研究の重要性を感じたことを出発点として本書『優生学と人間社会』が書かれたそうです(277ページ)。
本書はとても中身の濃い本で、優生学・優生思想について多くの知見が得られます。このテーマの専門家にとっては基本的なのかもしれませんが、私が気付いた事柄には次の3点があります。
1. 優生学はイギリスで始まった
「津久井やまゆり園」の事件当時、新聞やネット記事の報道で優生思想とナチス・ドイツを結びつけるものが多かったと記憶していますが、イギリスのチャールズ・ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴルトンが1883年に『人間の能力とその発達の研究』という本の中で優生学(eugenics)という言葉を使ったところが優生学・優生思想のスタートだとされています(14ページ)。eugenicsはギリシア語の「良いたね」に由来し、優良な血統を増やす要因を研究する学問として優生学が構想されました。
2. ヒトラーのナチスはユダヤ人差別だけでなく優生政策を実行した
「津久井やまゆり園」の事件当時のナチスと優生思想を結びつける報道は間違いではありませんでした。ナチスの犯した重大な罪は①ユダヤ人の大量虐殺と②優生政策の2つがあると述べられています(58ページ)。そして②の優生政策の内容として、強制的な不妊手術(断種)と安楽死計画があり、1933年に制定された「遺伝病(いでんびょう)子孫(しそん)予防法」などにもとづいて、これらは実際に実行されました(90ページ)。本当に恐ろしいことだと感じます。
3. 第二次世界大戦後も優生思想は各国で継続された
第二次世界大戦が終わり、ナチスは敗北して断罪されたにも関わらず、優生思想はそれほど断罪されなかったということも、私にとっては大きな気付きでした。ナチスの優生政策だけが問題にされましたが、他の優生政策はあたかも存在しないもののように扱われた(240ページ)。ここが重要なポイントで、日本でも優生保護法という法律が1948年から1996年まで施行されていました。この法律は戦時中に作られた国民優生法をベースとして作られたもので、第1条に「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」とされていました(170ページ)。このような考え方が日本以外の多くの国でも「保健政策」の名のもとに戦後も実施されていたことは、あまり知られていません。この現状を変えるために本書が書かれたのだと思いました。
戦後社会では出生前診断などの医療技術が大きく進歩しました。本書には「集団として遺伝的劣化(れっか)を恐れる優生政策がゾンビのごとく再生してくる恐れは小さいだろう」と述べられていました(271ページ)。たしかに「津久井やまゆり園」の事件は、国をあげての優生政策ではなく、優生思想をもった個人による犯行でした。しかし、優生思想への共鳴(きょうめい)が陰に陽に広がっていくようなことがあれば、やがて社会的に正当化され、政策にも反映される恐れもありますので注視していきたいと思います。