病歴や乳母事情も記された江戸期の史料から分かったこと

藪田貫 著『男と女の近世史』
(青木書店、1998年)

大阪の旧家から貴重な記録が

 江戸時代の庶民の暮らしに対する興味がだんだんでてきたので本書を読んでみました。
本書の著者、藪田貫さんは江戸時代の歴史を専門とする研究者です。本書では、江戸時代の初期から平成初期まで10代400年近く続いた大阪の旧家に残っていたいろいろな記録を史料として、江戸時代の人々の暮らしを明らかにしようとしています。
 対象とした家の記録から、この家はもともと農業(百姓)を生業としていたが、6代目から10代目までは武士になっていました(65ページ)。そして、武士と寺子屋の師匠を兼ねていた時期もあったことも分かりました。こういう身分・職業の変化が具体的に分かる史料が残されていたということはとても貴重だと思いました。

多産だったことが分かる

 生まれた子どもの人数まで分かりました。江戸中期頃には6人、後期には7人の子どもが生まれていました(69ページ)。現在と比べるとかなり多産だったことが分かりました。これについて藪田さんは、男の子の後継者(嫡子(ちゃくし))を得るという価値観の影響を指摘し、母胎が酷使されているとも指摘しています(69ページ)。たしかに、19年間に9回の妊娠(そのうち2回は流産、2回は幼少時に死亡)をしているので、「母胎の酷使」という表現も頷(うなず)けると思いました。

流行病からは逃れたが

 それから、この家の人々の病歴までかなり具体的にわかりました。1822年に日本で最初にコレラが流行しましたが、記録を見る限り、この家の者は誰も罹(かか)らなかったようです。その代わり、疱瘡(ほうそう)を患(わずら)ったり、長く眼病の持病を患ったりした人がいたことが分かりました。江戸時代には眼病を患ったり、失明したりした人は多かったと藪田さんは述べています(74ページ)。

寺の檀家が乳母を手配

 そして興味深かったのは、江戸時代の大阪の乳母事情についてでした。大阪の八尾慈眼寺の記録では、1783年~1857年までに12件の乳母奉公人が雇われた記録があるそうです。妻鹿淳子さんの『犯科帳のなかの女たち』と同様に、「乳持奉公」という言葉が本書にも出てきました(70ページ)。奉公期間は半年から1年で、支給される給料なども他の女子奉公人より高待遇であったのだそうです。この寺に属する家(檀家(だんか))の有力者が世話人になって乳母を探している様子がうかがえたことも、当時の人々の生活ぶりが分かって面白かったです。
 本書で藪田さんが用いていたような家の記録はとても貴重だと思いました。このような史料を用いた本を他にも探して読んでみたいと思います。一方で、文字の読み書きができないなどの理由で、このような記録を残していない人々もいたので、そういう人々の生活を明らかにする方法にはどのようなものがあるのか知りたいと思いました。

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