「清潔」の観念が変化した
ジョルジュ・ヴィガレロ 著『清潔(きれい)になる〈私〉―― 身体管理の文化誌』
(同文館、1994年)
「清潔」の英語とフランス語
以前、ヴァージニア・スミスさんの『清潔の歴史』を読んで英語の‘clean’という言葉の意味や感覚について勉強しました。古代ギリシアの衛生思想が集団を対象とするのではなく個人を対象としていたことや、空気や飲食物との関係、運動や睡眠、排泄(はいせつ)のことなどが「非自然物(ノン・ナチュラルズ)」と呼ばれて古くから重要視されてきたことなどを学びました。今回は英語の‘clean’にあたるフランス語‘propre(プロープル)’について詳しく論じた本書『清潔(きれい)になる〈私〉』を読んでみました。
本書の著者、ジョルジュ・ヴィガレロさんは身体や衛生、スポーツなどの歴史研究を専門とするフランスの歴史家です。本書では‘propre’の意味や身体感覚の変化が歴史的に検討されています。
礼儀作法として
本書を読んで分かったことの1つは、フランス語の‘propre’の意味は「清潔な」という意味のほかに「身なりがきちんとしている」という意味もあるということです(63ページ)。そして、17世紀頃まで「清潔」の基準を定めていたのは衛生学者ではなく礼儀作法書の執筆者だったということです(5ページ)。私は、何となくですが「清潔」と「衛生的」ということをイコールで考えていたことに気付きました。ヴィガレロさんは
「17世紀の清潔の習慣は、下着と、直接目に見えるものにかかわる。事物の華やかさとか、衣装の細部にわたる意味などに、身体の器官を保全することや、人口を維持することに集約される後代の清潔とは全く違う。」
と強調しています(6ページ)。
入浴は危険視された
次に気付いたことは、目に見える部分の「清潔」が変化するのは長い時間がかかったということです(110ページ)。顔や手、衣服、下着などは直接目に見えますし、特に衣服は人目に触れるものなので「身なり」の良さは宮廷の社交術として長きにわたって重視されてきました(60ページ)。これに対して身体に対する関心は限定的でした。手洗いや入浴の習慣はあまり重視されてきませんでした。それは皮膚の毛穴を通してペストなどの病毒が身体内に入り込むことを人々が恐れたからでした(13ページ)。水で身体を洗うことよりも下着を頻繁に替えることのほうが重視されていた時代も続きました(76ページ)。
水の使い方に変化が
ヴィガレロさんは、目に見える部分の「清潔」が長い時間をかけて変化していく様子を本書で解説しています。18世紀半ば頃から、水の使い方が徐々に変わってきたことがひとつの転機になりました。たとえば、少数の特権階級の住宅に浴室や化粧室が設けられるようになってきました(151ページ)。また、冷水浴が健康によいと論じる衛生学者も出てきました(155ページ)。この時代になってようやく礼儀作法の専門家に代わって衛生学者が「清潔」の意味を決定する主導権をとるようになってきました。ヴィガレロさんは「清潔は、身づくろいよりも健康を含意するようになった。清潔は体液の状態、手足の動き、身体の物理的な状態に関係するものになった。ただのうわべよりも、『内部』の機能のほうが重要になったのである。」と指摘しています(183ページ)。
細菌学の発展
このような変化を決定的なものにしたのは19世紀末の細菌学の発展だったということも本書を読んで得られた気付きです。ヴィガレロさんは「細菌の世界が身体を洗うことのイメージを変えた」と述べています(263ページ)。この時代に、汚れを拭(ぬぐ)うことが細菌を取り除くこととイコールになったことを反映して、清潔は衛生の基本となりました(264ページ)。そして、細菌が「目に見えない怪物」とされたことによって、目に見えず、臭いもしないものを除去することが清潔であることとイコールとなりました。
消費生活の中の「清潔」
現代ではさらに、個人的な消費生活の中での清潔に対する検討が必要だとヴィガレロさんは述べています(295ページ)。本書では、この点については割愛(かつあい)されていますが、本書で行われた考察は、現代人の清潔に対する考え方の根幹の部分をしっかり言い当てているように思いました。
19世紀末の細菌学の発展を扱った本書の章タイトルは「パストゥールの子供たち」となっていました。パストゥールは19世紀末頃に活躍した細菌学者です。私は今のところ、この人物について詳しく知らないので、今後、パストゥールの伝記なども読んでみたいです。