衛生思想はベジタリアン、薬草、水治療まで幅広い!
ヴァージニア・スミス 著『清潔の歴史――美・健康・衛生』
(東洋書林、2010年)
「クリーン」に込められた意味
コロナ禍に入って、帰宅後はまず手洗いとうがいをするという習慣を徹底するようになりました。以前は多少サボってもあまり気になりませんでしたが、新型コロナウィルスの恐怖感で衛生と清潔の観念がかなり強化されたと感じます。英語‘clean’について論じた本書を読んで「きれい」とか「清潔」という意味の内容について詳しく勉強したいと思いました。
本書の著者、ヴァージニア・スミスさんは衛生や予防医学の歴史を専門とする研究者です。ロンドンにあるウェルカム医学史研究所でスミスさんの研究を指導したのは『人体を戦場にして――医療小史』の著者で2002年に亡くなったロイ・ポーターさんだと本書の「解説」を読んで知りました(391ページ)。スミスさんはポーターさんの研究を受け継いで発展させているのだろうと思いました。
個人を対象とする衛生に限定
本書では英語‘clean’の観念に歴史的な土壌を提供した西洋の衛生思想が古代から近代まで詳しく検討されています。本書を読んで、まず気がついたことは、あの有名なヒポクラテスを中心とする古代ギリシアの衛生思想の特徴が、集団を対象とするのではなく個人を対象としていたということです(107ページ)。公衆衛生という言葉があるように、衛生は集団を対象にして、人から人への感染を防ぐという意味が強いと思っていましたので、古代ギリシアの個人的衛生というのは新鮮に思いました。
誤訳が定着してしまった
西洋の衛生思想は古代ギリシア以来、「非自然物(ノン・ナチュラルズ)」というものを重視しているそうです(108ページ)。それは①周囲の空気、②身体の仕事と運動、③飲食物、④睡眠と覚醒、⑤排便排泄(はいせつ)、⑥情念の6つです(108ページ)。どれも健康を維持するために重要なことであることは現代日本でも同じだと思いました。
これらが、なぜ「非自然物(ノン・ナチュラルズ)」と呼ばれるのかは疑問に思いました。全くの自然のままに放置しておいてはいけないもの、自然とのバランスや調和を考えないといけないものという意味かなと想像しましたが、どうやら正解は「中立物(ネウトラルス)」が「非自然物(ノン・ナチュラルズ)」に誤訳されて定着されてしまったということのようです(137ページ)。誤訳したのは12世紀のヨハンニティウスという人で、この人が書いた医学校の教科書がそれ以降の医学校でよく使われたために誤訳のまま定着してしまったのだそうです。
空気感染がクローズアップされた
この「非自然物(ノン・ナチュラルズ)」のうち、コロナ禍の現在は①周囲の空気からの感染がクローズアップされるようになったのだと思いました。この空気を通じての感染には、パスツールやコッホらの細菌学の発展ということが大きく影響しています。これは19世紀の後半から20世紀の初めにかけて起こった出来事で、ロイ・ポーターさんの『人体を戦場にして』にも書かれていました。
ベジタリアン、薬草、水治療のブーム
スミスさんの『清潔の歴史』を読んで特に面白かったのは、政府や大学が公認する正統な医療から外れた「民間生理学(ポピュラー・フィジオロジー)」についても取りあげられていたことです。「民間生理学(ポピュラー・フィジオロジー)」には極端な菜食主義者(ベジタリアン)や薬草学者、海岸や温泉での水治療などのブームも入っていました(302、320ページ)。
衛生の失墜
そして、「衛生」という言葉が衰退していく経緯についても触れられていたことも勉強になりました。ナチス・ドイツが優生学と「社会衛生」を結びつけたことが「衛生」という言葉の評判を落とすことになり、代わりに「健康」という言葉の方が好まれるようになっていったということです(358ページ)。
本書を読んで‘clean’という観念に影響を与えた衛生思想の裾野の広さに驚きました。衛生思想は「民間生理学(ポピュラー・フィジオロジー)」まで含めて考察すべきだというスミスさんの考えにとても共感しました。本書をきっかけにさまざまな「民間生理学(ポピュラー・フィジオロジー)」についても調べてみたいと思いました。