江戸時代の「赤ちゃんポスト構想」とは?
沢山美果子 著『江戸の捨て子たち――その肖像』
(吉川弘文館、2008年)
2007年に熊本の病院で「こうのとりのゆりかご」、通称「赤ちゃんポスト」が設置されました。自分で子どもを育てられない親が、病院に匿名(とくめい)で子どもを預けて育ててもらうことができる窓口のことです。病院側は授かった子どもの生命を大切にするためと説明していますが、「捨て子」を助長するかのような印象もあって賛否が渦巻く議論がありました。「江戸時代にもあった赤ちゃんポスト構想!」と帯の部分に銘打(めいう)たれた本書を見つけ読んでみました。
生類憐み令と関係あり
本書の著者、沢山美果子さんは主に教育や保育を専門とする歴史研究者で、本書では特に江戸時代の岡山藩に関連する史料から捨て子への対応や社会的な背景などに迫っています。
本書の冒頭で述べられていますが、日本史の研究では、江戸時代以前にも捨て子が行われていたことが明らかにされています(16ページ)。また、江戸時代の研究としては、このブログでも以前紹介した塚本(つかもと)学(まなぶ)『生類をめぐる政治』(講談社、2013年)でも捨て子について触れられています。徳川綱吉による犬の愛護令(あいごれい)は捨子・捨牛馬(すてぎゅうば)の禁令に続く政策として打ち出されたものだからです。「ひと」の中では、捨て子のほかに病人や入牢者(にゅうろうしゃ)も生類(しょうるい)憐(あわれ)み政策の対象とされました。
捨て子を憐れみ、育てる
沢山氏の本書では、綱吉の生類憐み令の後、捨て子を発見した場合に届け出をすることが各藩で定められたと述べられています(18ページ)。また、出産や流産、3歳までに死んだ場合なども届け出をすることが命じられて、全体として実子を捨てる行為を防止する政策がとられたと指摘されています(19ページ)。そして、幕府は「捨て子があった場合は、その捨て子があった場の者が介抱・養育する。望む者があれば養子にし、届け出るには及ばない」という方針をとったようです(18ページ)。現在ならば、もし、捨てられた子どもを発見したら行政の窓口に届け出るのが一般的なのではないかと思いますが、「発見した者が育てよ」という方針には驚きました。
お寺の境内に捨て子が
それから、お寺の境内(けいだい)に捨て子が置かれるという事例が多くあったことにも、現在ではあまり聞かないことなので意外な感じがしました。お寺の敷地内は比較的安全な場所で、発見もされやすいという事情があったようです。捨て子には、お金が添えられていたり、名前や生まれた日が記された紙が添えられていたりと、捨てる親の側は子どもの命が助かることを願って捨てている場合が多くあったと指摘されています(35~36ページ)。
お寺の境内で発見された子どもをお寺が育てたわけではなく、家を継続させたい者や労働力として必要とする者たちが養い親となったようです(37ページ)。
しかし、命が助からずに死んでしまう例もありました。歴史人口学の研究では、江戸時代後半の1歳未満の死亡率は約20%でしたが、沢山氏が本書で取り扱った岡山藩、津山藩の捨て子の事例では1歳未満の死亡率は約4%だったそうです(79ページ)。この数字は、届け出されない場合や統計上の不備なども考えられるので、実際は4%より高かった可能性もあるのですが、それにしても、捨て子を手厚く保護する体制が整えられていたと考えられると沢山氏は指摘しています。
動物愛護と人間の愛護
徳川綱吉の生類憐み政策は、犬の愛護だけでなく人間の愛護にも力点が置かれていたというのが塚本氏の本と沢山氏の本から分かりました。日本史の研究では、捨て子を保護する江戸時代の体制が具体的に明らかになってきているようです。江戸時代に生きた人たちの生活の様子や子どもに託した願いについても本書には詳しく書かれていますので、オススメの一冊です。
沢山氏は、明治時代以降に子どもを育てる体制がどのように整えられていったのかについても研究し著書を書かれているようなので、そちらも読んでみたいです。