ドイツ近代医療の「異端」とは?
服部伸 著『近代医学の光と影』
(山川出版社、2004年)
以前、黒﨑周一さんの『ホメオパシーとヴィクトリア朝イギリスの医学』を読んで、近代医療の「正統」と「異端」が区別されることがあるが、両者を明確に区別することは、本当は簡単ではないということを知りました。黒﨑さんの本は19世紀イギリスの医療を事例としたケーススタディでしたが、今回はドイツを事例とした本書を読んでみました。
近代医療への不信
本書の著者、服部伸(はっとりおさむ)さんはドイツ医療社会史を専門とする研究者です。
本書のテーマは、日本で通常行われている医療のベースとなっている西洋医学(近代医学)が発展していく過程で、治療のさいの副作用や医療過誤、医師の倫理観欠如など医療や医師に対する不信感からオルタナティブ医療と呼ばれるもうひとつの医療が選び取られてきたことを浮かび上がらせることにあります(3ページ)。日本では明治以降に西洋医学が主流となっていきますが、西洋のオルタナティブ医療を学ぼうとはしませんでした(85ページ)。また、明治以前の日本の伝統的な医学は中国や朝鮮半島から学んだものを日本で独自に発展させたものですが、この伝統的な医学は政府の政策によって医療の中心からは排除されました(1ページ)。
コンパクトなリブレットで読める
本書は歴史の教科書で有名な山川出版社の世界史リブレットのシリーズで、全体として90ページ程度のボリュームでコンパクトに医療社会史の知識が得られます。近代医療の発展についても、18世紀末までの体液病理学説についての簡潔な解説があり、続いて外科を中心とした体液病理学説を乗り越えようとした動向が分かりやすく解説されています。
麻酔や消毒の技術が発展した
体液病理学説とは、血液、粘液、黄胆液、黒胆液という4つの体液のバランスがくずれることによって、疾病が発生すると考えることに特徴があり、疾病の原因となる有毒物を体外に放出したり、体液のバランスをとったりするためにメスによる切開やヒルを利用した瀉血(しゃけつ)という方法を治療の柱としていました(5ページ)。西洋医学といっても18世紀末までは、かなり古典的で危なっかしい治療法がとられていたんだなと思いました。
瀉血が下火になったきっかけはフランスの臨床医、アレクザンドル・ルイが統計を用いて多くの事例を調べ、瀉血が治療法として効果をあげていないことを論じたことでした(9ページ)。このことを私は全く知りませんでした。
また、西洋医学の発展にパストゥールやコッホによる細菌学が大きく貢献していたことは、これまでに本で読んだことがありましたが、細菌学以外にも、外科の分野で麻酔技術や消毒技術が確立されていったことは本書を読むまで、あまり注目していませんでした。考えてみれば、手術の時、麻酔を使っていなかった時代の人はとても痛かっただろうと思います。実用的な麻酔法の開発は1840年代のアメリカで進み、続いてイギリスでクロロホルム吸入による麻酔法が開発されたのだそうです(18ページ)。
殺菌法は、イギリスの外科医リスターが石炭酸を利用する方法を開発したことで大きく進展したのですが、これはリスターがパストゥールの細菌学を応用したものだそうです(19ページ)。
オルタナティブ医療の人体観・自然観
さて、オルタナティブ医療ですが、その代表例の1つがドイツのハーネマンが考案したホメオパシーです。ハーネマンの初期の著作には瀉血に対する厳しい批判が書かれています(47ページ)。18世紀末までは西洋で盛んに行われていた瀉血という伝統的治療法を乗り越える方向が目指されていたことが分かります。
そして、ホメオパシーの基本的な考え方は「本来人間がもっている活力が減退することが、疾病の原因であり、表面にあらわれている症状に対応するだけでは、疾病を根本的に治療したことにはならない」というものです(50ページ)。西洋の近代的な医学は、身体のある部位に疾病があり、それを取り除くための治療法を確立するという方向に向かっていましたので(51ページ)、ホメオパシーのこの考えは、正統医療との分かれ道になっていることが分かりました。
また、本書では、ホメオパシーと並ぶ代表的なオルタナティブ医療として冷水や薬草、食餌療法を組み合わせた自然療法が取り上げられていますが、正統医療が万能ではないと感じる人々の不満を取り込んで一定の信奉者を獲得していった(84ページ)ことは、日本ではあまり知られておらず、とても興味深いと思いました。
「正統」「異端」の線引きは微妙
本書でも黒﨑周一さんの『ホメオパシーとヴィクトリア朝イギリスの医学』と同様に、「正統医学とオルタナティブ医療のあいだの線引きは決して明確ではなかったし、対立局面だけではなかった」と指摘されています(85ページ)。本書の題名は『近代医学の光と影』となっており、明治以降の日本で主に紹介されてきたのは近代医学の「光」の部分である正統医学だと考えられますが、今後は「影」の部分にも注目すると西洋の医療や社会についてより深く理解できるようになると思いました。