戦国時代の戦場は農閑期の「稼ぎ場」だった!?

藤木久志 著『新版 雑兵たちの戦場――中世の傭兵と奴隷狩り』

(朝日新聞出版、2005年)

 小学生の頃にNHKの大河ドラマ「徳川家康」を観て以来、戦国時代に興味をもち続けています。群雄(ぐんゆう)割拠(かっきょ)の中から信長、秀吉、家康らが天下統一を成し遂げていくストーリーに魅力を感じ、どうしても有名な武将たちに注目してしまいます。一方で、疑問もありました。大河ドラマなどではあまり描かれませんが、身分の低い兵たちの戦いぶりや食事、そして、寝泊まりの様子などです。そこで、身分の低い兵(雑兵(ぞうひょう))について書かれた本書を読んでみました。

騎馬に乗れたのは1割未満

 本書の著者、藤木久志さんは、日本中世史を専門とする歴史家です。藤木氏は戦国大名たちがくり広げた派手で有名な合戦物語の底の部分では、身分の低い兵たちの「生きるため食うための戦争」が行われていたと説きます(5ページ)。仮に戦国大名の軍隊が100人だった場合、騎馬にのった武士は10人足らずで、残りの90人以上は①「足軽(あしがる)」などの「侍(さむらい)」、②主人の馬を引き、槍(やり)をもった「下人(げにん)」、③村から駆(か)り出(だ)された「百姓(ひゃくしょう)」だったそうです。このうち①「足軽」は戦闘要員ですが、②「下人」と③「百姓」は非戦闘員で、激戦になって巻き込まれてしまうのでなければ、戦いから排除(はいじょ)されていたのだそうです(6ページ)。知りませんでした。

なぜ秋冬に出兵するパターンが多いのか?


 有力な戦国大名だった上杉(うえすぎ)謙(けん)信(しん)が仕掛けた戦(いくさ)の出兵時期のデータが示されています(97ページ)。これを見ると、謙信は秋冬に出兵するパターンが多いのですが、これは秋冬が村の農閑期(のうかんき)にあたり「下人」「百姓」を集めやすいことが大きな要因で、「明らかに戦いには季節性があった」と藤木氏は指摘しています(98ページ)。
 そして、戦国時代の戦場には、このような「下人」や「百姓」のほかに、山賊(さんぞく)・海賊(かいぞく)・商人たちが入り乱れて、さまざまな悪事が行われていたそうです。悪事とは、たとえば村への放火と物取りです。また、人を生け捕りにして身代金(みのしろきん)をとることも行われていたそうです(32ページ)。つまり、戦場が一種の「稼(かせ)ぎ場(ば)」でもあったのです(103ページ)。

村の自衛策


 これに対し、戦闘が予想される地域の人々はふだんから食糧や家財の一部を、町場(まちば)から周りの村へ、民家から蔵(くら)や寺社(じしゃ)に預けて自衛する「隠物(かくしもの)」「預物(あずけもの)」という習俗(しゅうぞく)もあったと藤木さんは説明しています(154ページ)。

「稼ぎ場」が失われると……


 本書の分析で最も興味深かったのは、村人の農閑期(のうかんき)を埋め合わせるような一種の「稼(かせ)ぎ場(ば)」に戦場が利用されていた状態だったけれども、秀吉の天下(てんか)平定(へいてい)によって「稼ぎ場」が失われた、という指摘です(206ページ)。戦場に代わって大阪城など各地の築城(ちくじょう)・修理や町づくりなどの公共事業が「稼ぎ場」になっていったり、国内の戦場が閉鎖された代わりに国外(朝鮮)に戦場が求められたりしたという説にも説得力があると思いました。

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