「病む身体」の変化をたどる本

田中祐理子 著『病む、生きる、身体の歴史――近代病理学の哲学』
(青土社、2019年)

 コロナ禍に入った頃から感染症に関する本を何冊か読むようになりました。本書はその中の1冊です。感染症を含む病気というものを人間社会がどのように捉えて、どのように対処しようとしたのか。これについて特に哲学・思想の面から深掘りした本を探したところ、本書に行き当たりました。

古代の四体液説


 本書の著者、田中祐理子さんは哲学・科学史を専門とする研究者です。本書の特徴は、医学と身体観の変化に焦点をあてているところだと思います。西洋医学の祖(そ)、古代ギリシアの医者ヒポクラテスの医学は、血液、粘液、黄胆汁(おうたんじゅう)、黒胆汁(こくたんじゅう)という4つの体液のバランスの崩れによって病気が引き起こされると説明していました(28ページ)。このヒポクラテスの体液病理学は2世紀のローマ帝国で活躍した医者ガレノスによって体系化され中世から近代初期まで医学の主流となっていました。

17世紀の科学革命は医学にも及んだ

 本書が主に取り扱うのは、ヒポクラテスやガレノスの体液病理学が17世紀の「科学革命」の時代以降に変質していく過程です。その第一歩は17世紀イギリスの解剖学者ハーヴィによる「血液循環の発見」です。それまでの体液病理学に代わって、心臓と血管によって血液が全身を循環するという人体のイメージが提示されました(34ページ)。
 17世紀には、オランダで顕微鏡が開発されました。「顕微鏡は望遠鏡とともに17世紀初頭、オランダで発達していたレンズ磨き技術の成果として登場した」と田中さんは指摘しています(39ページ)。望遠鏡の開発によって宇宙や天体に関する学問が発展します。望遠鏡を駆使した天文学者、ガリレオ・ガリレイが活躍したのも17世紀ですね。そして、顕微鏡の開発によって人体や微生物に関する研究も発展しました。これがヒポクラテスやガレノスの体液病理学から西洋医学が離脱していく道を決定的なものにしたのではないかと思いました。

濁った湖での発見

 17世紀のオランダではアマチュア自然哲学研究者のレーウェンフックが顕微鏡を使って「夏の濁った湖の水」を観察して、「砂粒より1000倍も小さい生きもの」たちが水中を泳いでいるという報告をしたそうです(305ページ)。こういう好奇心の旺盛な人による意外な発見というのも医学の進歩に貢献することがあるのだなと思いました。

伝染病の予防に取り組む

 その後、19世紀のフランスで化学者パストゥールが、ワインやビールを発酵(はっこう)させる酵母(こうぼ)の研究など微生物の研究に取り組みました。この研究を支えたのはもちろん顕微鏡です。パストゥールは、酵母が「生きているもの」であることに気づき、発酵(はっこう)や腐敗(ふはい)という現象の背後にあるメカニズムを解明していくことに成功しました。また、パストゥールは人体に生じた傷口を腐らせ炎症を起こす「菌(きん)」という存在にも気づきました。これは病原菌の理論や遺伝や生殖細胞の理論につながる大発見だったのです(106ページ)。19世紀の終わり頃から20世紀の初め頃にかけて、フランスのパストゥール、ドイツのコッホ、ノルウェーのアルマウェル・ハンセンらが競い合うように研究を進め、コレラ菌、ハンセン病の病原菌、結核菌などが特定されていきました(200ページ)。ここに日本の医者、北里(きたさと)柴三郎(しばさぶろう)によるペスト菌の特定も加えてよいでしょう。これらの発見によって、人類に古代からずっと打撃を与えてきた伝染病=感染症を予防する手段が開発されるようになったのです(307ページ)。それは病原菌の特性に応じた殺菌の方法やワクチンの開発という方向性です。ヒポクラテスやガレノスの体液病理学では、この方向が見えていなかったのです。

ワクチン開発の時間をかせいだ「ステイホーム」

 コロナ禍に入った2020年頃、「ステイホーム」が呼びかけられたり緊急事態宣言が出されたりして、それまで経験したことのないような不安を覚えました。この移動制限や行動制限は、基本的にはコロナ向けの薬やワクチン開発のための時間稼ぎだったと今ならば理解できるように思います。伝染病=感染症には、人体の中での病原体の増殖を抑えたり、他の人に病原体を移すのを抑えたりする薬やワクチンの開発によって対処するというのが現代の医学や公衆衛生の基本になっているということです。
 コロナ禍の前までは、ワクチン接種の重要性についてほとんど考えたことがありませんでしたが、今後はもっとワクチン接種に注目していきたいと思います。また、北里柴三郎さんなど日本人による医学への貢献についても調べていきたいと思いました。

過去記事もご参照ください!

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山本太郎 著『感染症と文明――共生への道――』(岩波書店、2011年) コロナ禍で感染症への注目が急増  2020年始めから新型コロナの感染が広がるまでは感染症というものにほ…

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